■〜秘密〜■


〈 参 〉 20070513



寝室から布一枚で仕切られた隣室に、ゆったりと体が伸ばせる程度の大きさの浴槽は置かれている。
決して華美ではないが細やかで上品な細工が施されたそれは、王専用のもの。
中にたっぷりと張られる水は、汲み上げられたばかりのもので。まるでアテムの心を映し出すかのように、濁りなくどこまでも透き通っていた。

外部とは木製の重たいドアで仕切られており、いつもならばそこから湯浴み係は出入りした。
アテムが目を覚ましたことを感じ取り、直に床に座り込んだ楽士たちが音楽を奏で始める。その美しい音色に誘われて、彼の体は完全に覚醒する。そして、清清しい朝の光を纏い布の下を潜って隣室へと移動した。

丁度良い温度の水に身を沈めると、その日の気分にピッタリの香油が垂らされる。
小鳥も囀りだすような心地よい曲と、神経の隅々まで染み渡る穏やかな香り。そして凝り固まった筋肉をやんわりとほぐしてくれる、温かい、水。

一日の始まりを、そうしてゆっくりと味わっていた。


いつもなら。


けれど、今朝は。






アテムは、ひとり。ぼんやりとその身を水に浸していた。

静かに、
……たったひとりで。


朝風呂は毎日の習慣ではない。彼の気分でその朝、急遽、準備されることもあり、この日のアテムの行動は特に変わったものではなかった。けれど、誰一人として傍に控えさせなかったのは初めてだった。

(ヘンに、……思われたかな……)

でも。

――1人で考えたいことがある――

(別に、おかしくないよな……)


その四角い箱の中は、充分足を伸ばせる広さであるのに。
アテムはひざを抱えて小さく縮こまっていた。

準備が出来たことを告げる声が去っても、彼はしばらくその場を動くことができなかった。
体のあちらこちらが酷く痛んで。けれどもそれ以上に、胸が痛くて苦しかった。

悔しかったのか、辛かったのか。それとも……悲しかったのか。
何が苦しみの原因なのか、その理由をアテムは追求しようとはしなかった。

(なんてこと、ない。なんでもないことなんだっ)

ただ、そうやって自分に言い聞かせるだけで。
重たい体を引きずり、這うようにしてどうにか浴槽まで辿り着いた。
そうして漸く、疲弊しきった己を清らかな水にさらすことが出来たのだ。


(温かい……)

じんわりと骨まで浸透する温もりを感じて、ほうっと息をつく。冷めきって、こわばった指の先までがゆるゆると弛んで来る。すると、少しずつ、鈍っていた感覚が戻ってきた。

(イタイ)

ほっそりとした手首に刻み込まれた傷が、水でしみた。
その痛みこそが、反撃することさえ許されなかった惨めな闘いの証。


目の前に、大きな男の影が浮かんでくる。

耳に残る荒い息遣い。
むせかえるような体臭。
そして、熱く脈打っていたのは。

思い出す。


何度も、何度も、……あの、グロテスクな――

――!!」

大声で叫び出したい衝動にかられ、慌てて両手で口を覆った。
いけない、今、声を上げてしまったら、全てが溢れてしまう!あの、永遠に続くかと思われた悪夢のような時間を必死で耐えたのに。奴が……あの男が去ってしまった今は、もう気を張る必要はないと、それは分かっているけれど。でも何一つ、表に出してはならないと厳しく自らを律した。
誰が見ていなくとも、いつでも毅然とし、強くあらねば。

――コワサレテシマウ――

(痛い)

ズクズクと下半身が疼く。ひどい眩暈と、吐き気がした。

(甘えるな)

緩慢な動作で、アテムは自分の体をさすった。洗い流して、全てをここで落として行かねばならないから。小さく息み、下腹部を丁寧に手の平で押していく。
そこに吐き出されたモノは、全て出てくれるだろうか。
この中に残りはしないだろうか?

消したい。
何一つ、残したくはない。

『あんたが、メスなら――

「っく……」

惨めで、情けなくて。情けなさ過ぎて、いっそ笑い飛ばせたらと思う。

自分の力とは何だったのだろう?こんな風に、身包み剥がされ裸になっては何も出来はしないじゃないか。この身一つで放り出されれば、王であるということに意味はない。権力や地位に驕るつもりは全くなかったけれど、それらを取り払われた自分というものが、これほどまでに頼りない存在だったとは!どんなに頑張っても、結局どうにもならなかった。
こんなにもオレは

(弱かったんだ……)

そうだ、弱かった。ただ、それだけのことだ。


「……ぅっ」

慌てて、水の中に頭を突っ込んだ。両目から零れるものを、そこに同化させて。
最初から、そんなものは自分の中に存在しない、なかったことにしたい。だって違うから。悲しいんじゃない、辛いんじゃないから。こんなもの、でる筈ないのに!!

(痛くない、痛く、ない……)

けれども、どうしても止めることが出来なかった。
だから仕方なく

――、ごめんなさい)

肩を震わせながら、それでも声を押し殺して。大きな瞳から溢れるものをそのまま流していった。玉のような粒は、後から後から湧き出でて。ぽろぽろ、ぽろぽろ、水中へと零れてゆく。
大きくなりそうな嗚咽を飲み込みながら、それが枯れてしまうまでアテムは泣いた。


こんな弱い自分だから駄目なんだ。もっとしっかりしなければ……これしきのこと。












どれくらいの間、そうしていただろうか。

漸く少し、落ち着いて。俯いたままであった頭をゆっくりと持ち上げた。
ぱしゃぱしゃと軽く水音を立てて、顔を洗い、ふぅっとひとつ、深呼吸をする。

(大丈夫、大丈夫……)

オレは、何も変わってない。

ぼやけていた視界は、心持ち明るくなっていた。
昨日の朝と、何一つ変わらない。

(大丈夫)

それを確認するように、自分の体を見つめた。


と。

ふと、視界に入った、それ。
小さく残る、手首の、痕。

「?」

ちっとも気づかなかった。自由を拘束していた帯の跡とは違う、円形に近い薄紅のアザのようなものが点々と散りばめられている。
これは、何の『痕』だ?

よく見ると、それは体の至るところに点在していたのだ。

(こんなに?)

男に押さえつけられて、紫色に鬱血した部分とはまた違う体のシミ。
どんなに擦っても消えることはなく、アテムは困惑した。

(どうしよう……)

もし、これが何かの痕跡なら?自分にはよく分からないが、これを見て、自分に何が起こったのか分かる人間が存在するとしたら……?

(どうすれば)

身支度を整える際、数人の衣係りが傍につく。
彼女たちにこれを見られるのはまずい、咄嗟にそう思った。



慌てて浴槽を飛び出し、その辺にあった衣装を適当に引っ張り出す。
何とか隠せるものならば、どうにかして……。



奇妙なことに。

それは、衣服で覆われるところに集中していた。
首筋や、腕、ふくらはぎなど露出する箇所にも痕はあったが、それは、普段から身に着けている貴金属類で残らず隠れてしまった。
わざわざ、人目に晒されないように付けられたかのような。

(まさか)

そんなはずは無い。バクラはアテムを散々辱め、それを悦びにしていたのだから。
あの男の言葉が次々と思い出されていたたまれなくなる。
気にするな、忘れろ。これにもそんな深いイミはない。きっとこれはたまたまだ。「隠れるように」なんて気遣い、するわけない。

(そう、たまたまだ……)



どうにか心を静めた。だが、こうしてきれいに隠されてしまったことにより、逆に追い詰められたような気分になる。誰の目にも触れることのないこの『痕』が、アテムの心を重くしたのだ。



『またな』

バクラの去り際の言葉は、無意識下で外部の刺激を遮断していたアテムの耳には届いていなかった。

けれど

簡単には、切れない気がした。
これだけでは、終わらない予感があった。



『貴様にオレは、変えられない』

あの時、アテムはそう断言したけれど。



本当は、怖かった。

何かが変わってしまいそうで。
バクラに、変えられてしまいそうで。


誰にも明かすことのできない『秘密』を抱えた今。
この下に隠された『痕』は、バクラとアテムを結びつける見えない『絆』のようで。


それを辿り、ひたひたと忍び寄る『変化』が、もうすぐ背後に迫っているような錯覚を起こす。

「オレは、変わらない……」

自分に言い聞かせるその声には、もはや何の力も感じられなかった。