■〜SECRET〜■


〈 プロローグ 〉 20070418




――あの、双眸が脳裏に焼きついている――




薄暗い店の片隅で、男はひとり、酒に酔う




――目を閉じても、瞼の裏に浮かび上がる、二つの紅い光……――











「お一人?」

ふいに声を掛けられ、面倒くさそうに顔を上げた。

肉付きの良い体を摺り寄せて、媚びる様な瞳で自分を見つめる女の顔が間近にあった。
いつの間に時間が過ぎたのか、店内は活気がなくなりひっそりとしている。静かなのも当然だ。客は男女二人しかいなかった。


値踏みするように、女を上から下まで眺めやり。
――バクラは無言で杯を持ち上げた。
女は肩をすくめ、慣れた手つきでなみなみと酒をついでやる。



「おい、そろそろ出てってくんねぇか?」

奥から不機嫌な店主の怒鳴り声がした。




裏通りに隠れるように存在する、小汚い飲み屋。
町が寝静まる時間ようやく開店するこの酒場は、ガラの悪いおやじ一人で切り盛りしていた。安っぽい酒と、まずい料理。だが、行き場のない町のゴロツキ共の溜まり場となっている店はそこそこ繁盛していた。
光に晒されることを恐れるように、夜の闇に紛れて客は集まる。
ワケありの人生を背負う男たち、そして彼らの懐を当てに身売りする女たち。
欲望が吐き出す熱に浮かされ、ムッと立ち込める濃密な空気を味わいながら、質の悪い酒に酔い素性のわからぬ相手とまぐわう姿はそこかしこで見受けられた。だが、今現在、店内には僅かな熱も残っていない。
夜が白む頃、ひとつ、またひとつ影は消え。町の住人が目覚める頃には、何事もなかったかのように落ち着きを取り戻すのだ。


「聞こえねぇのか?今日はしめぇだよ!さっさとけぇんな」

二度目の怒声にバクラは舌打ちし、テーブルの上に代金をぶちまけた。

「釣りはいらねぇ」

低く唸ると椅子を蹴り上げる。大きく音を立てて倒れるそれを跨いで、なにやら悪態をつくおやじの声を背に店を出て行った。



「あらぁ……」

面白そうにその様子を見ていた女はニタリと薄ら笑い、彼の後を追いかけた。








外はうっすら明るくなり始めていた。そこに漂う空気は、僅かに夜の冷たさを残している。
露出した肩を摩りつつ、女は辺りを探り探り歩く。

(これで、今日は打ち止めか……)

ふふんと笑いながら焦る風でもなく、気まぐれな猫のようにぶらぶら路地裏を彷徨って。
そうして暫くの後、壁に寄りかかり、光の手を伸ばす宙を睨みつけているバクラの影を捉えた。



「ねぇ……気晴らしに、どう?」

甘えた声でしなを作りながら、ゆっくりと近づく。
一度だけ横目で女を確認し、バクラはすぐにつまらなそうに天を仰いだ。そっけないが、拒絶を感じさせない雰囲気を読み、女はバクラの腕に絡みつく。

「面白くなさそうねぇ……ま、面白いことなんてそこらにゃ転がっちゃいないもんだよ。待ってるだけじゃダメ。自分の手で、掴み取らなきゃ」

ぴくりと眉を動かし、バクラは初めてまともに女を見た。
店内ではよく確認できなかったその顔は、彼の趣味ではなかったが。女が自分でそれを意識できる程度には、悪くない造りをしていた。

「てめぇに言われなくても、奪ってきたさ……つい、さっきもな」
「それにしちゃ、不満そうだよ?」
「うるせぇなぁ……」

ぼそっと口にして。明らかに億劫な態度で身を起こし、バクラは女の腕を乱暴に引き寄せた。
それまで自分が縋っていた壁に彼女の頭を押し付け、その口を乾いた唇で塞ぐ。


噛み付くように吸いながら、

(女のくせに、硬いな……)

冷めた心で呟いた。


アレは柔らかかった。
こんなに厚く、ザラついてなどなかった。
透き通るように薄い膜はとても滑らかで、どことなく甘く――簡単に傷つけられそうな果実のようだった。

(……って、ナニ考えてんだ、オレは)


蘇る感触を振り払おうと一段と深くなったバクラの口付けは、女の期待に火をつけていた。
ねっとりと絡みつくような匂いをたゆらせ、女はバクラの首に腕をまわす。

(ああ、めんどくせー)

また、ひとりごちる。何故か、ひどく鬱陶しい。
いつもなら、どんな相手であってもそれなりに楽しめる。
なのに、今日は「その気」になれない。

何かが邪魔をしている。それが気に食わなくて、半ば意地になり女の体を弄った。


バクラの指は、女の悦びの点を的確に突いていた。
快楽に慣れている筈の豊満な肉体が新たな刺激に反応する。徐々に意識は浮ついて……やがて膝の力が抜けたのか、女の重みがバクラの首にかかる。それを合図に彼女が羽織っていた薄い衣をはだけ、バクラはその肌に直に指を這わせた。

(違う……)

どうしても、そう思う。
何もかもが、違うと。

この、質の悪い布の感触も、指に触れる体表も。
毛羽立っているようで、いちいち引っかかる。

あんな風には進んでいかない。
アレは、行く手を阻むものなどなく、どこまでも指が滑っていった。
こんなに使い古された、くたびれたものではなかった。


ますます、冷めてゆく。
つまらない、つまらない

(つまらない)


あそこにある、アレがイイ。
こんなのじゃなく、アレが、……アレを、もう一度……。




(そうじゃねぇっ)

自然に生じた欲求は、理性で捻じ伏せた。
ムカつく、この感情は、ひどくムカつく!

「くそっ!」

ひとつ大きく頭を振って、女の体を荒々しく土の上に押し倒した。
まともに向かい合い、上から見下ろし視線を絡ませ、そして――



「?」

突如、バクラの動きは止まった。
弥が上にも高められた欲望――その熱にうっとりしていた女は急速に冷めてゆく空気を感じ、我に返った。

「なに……?」

訝しげに眉をひそめる女から顔をそむけ、バクラはゆっくりと体を起こした。

「ちょっと、何なの?」
「やめだ、やめっ。気分が乗らねぇ」

女の目を見ることなく、あっさりとそう告げる。

「はぁ?あんた、何言ってんのさ!」
「消えろ」

バクラがやる気をなくしていたのは明白だが、せっかくの金づるを逃すものかと女は食い下がる。

「いいけどさっ手ぇつけた分だけは払ってもらうよ。中途半端に放り出されるんだ、その始末代も……」

卑しい目を吊り上げて、バクラの胸に掴みかかる。
しかし、次の瞬間その表情は凍った。



「失せな……」

長い前髪の奥で光る目に感じた恐怖。
そこにあったのは本物の殺気だった。

何なの……そう声に出すことすらできず、身を刺す視線から逃げるようにして女は退散した。
半裸で走り去るその背中を睨みつけ、バクラは苦々しく吐き出した。

「くそったれが……!!」










気がついてしまった。


気付かされてしまった……。


あの、目。



(違う……)


違う。


うっとりと熱を帯びた女の瞳を見て、胸に痞える不快感の正体を漸く理解した。




気に入らないのはここだ。

瞼の裏に焼きついたままの紅い瞳は、この女のように従わなかった。



アレは、最後までこの自分に屈しなかった!!






(オレは、勝てなかった、のか……?)






二度目の、敗北を知った。