| 夢路 |
『それは、とても優しい夢でした』 柔らかな日差しを全身に浴びて、無防備に体を解放し横たわる少年は。口元にうっすらと微笑を浮かべ、気持ち良さそうに眠っていた。 太陽から受けた熱を十分に含んだ土の上で、その身を汚さないようにと気遣う草たちに包まって。嬉しそうに風に体を揺らしながら甘い香りを届ける花々に見守られている。 ――この膝の上に乗せて。小さな頭をそっと撫で いつ現われたのか。少年を見つめる彼女の隣に、一人の女性が立っていた。 ――梳いてみれば、燃えるように紅い髪は指どおり滑らかで。そよ風に吹かれる金の前髪が、絹の糸のように煌いていた まるで彼がそこにいるように。細い指先でその仕草を再現してみせる。 場に、平和で穏やかな空気が舞い降りた。 女性の内から控えめに、けれども際限なく溢れてくるのは。大切に大切に、かの存在を慈しむ心。 「それは、貴女の思い出ですか?」 ふと思いついたように彼女が問うと。彼女と同じ顔を持つ女性は、首を横に振った。 ――いいえ。このようなこと、とてもではありませんけれど。恐れ多くて、できませんでしたわ ふふ、と笑って。そして女性は言ったのだった。 ――これは、わたくしがあの方に差し上げたかった、〈幸せな時間〉のひとつです 『それは、とても強い夢でした』 小柄な老人は事切れた。 その傷だらけの肉体から流れ出たぬるい血液を握り締め、女性は闇をかきわけ瓦礫の中を突き進む。 ただひたすらに、前だけを見つめて。 ――……は、今、苦しみの直中にある 女性は、知っていた。 〈現在〉が、どうなってしまうのか。 そしてこの先〈未来〉に、何が待っているのか。 既に全てを把握していた女性ならば、己の望みを叶える行動ができる筈。 「あそこに行けば、会えるのに」 けれども女性は前に進む、 脇目も振らずに突き進む。 ――……は立ち向かう 引き返せば間に合うのに。 (情の深いあの瞳に出会える) ――たったひとりで、立ち向かい まだあの人は、そこにいるのに。 (心に響くあの声に出会える) ――そうしてもうすぐ、捨ててしまう 見て、聞いて、話して、動く 生きている、あの人に会えるのに。 「後悔は、ないのですか?」 遠く離れてしまった王宮を気にしながら彼女が問うと。彼女と同じ顔を持つ女性は、首を横に振った。 ――それを『後悔』にしない為に。わたくしは前に進むのです 闇ばかりの前方を見つめて。そして女性は言ったのだった。 ――この先に、必ず光はあるのですから 『それは、とても苦しい夢でした』 女性によく似た大きな瞳を持つ子供が、一人遊びをしている。 年の頃は十といったところだろうか。 愛情を一身に受け育ったことが分かる、くもりのない笑顔。 彼女はそれを、好ましく思っていた。 彼を傷つけるものなどなかった筈。 そこにあるのは、疑うことを知らない無垢な心。 あっ、かあさま! 飛びついてきたその子を胸で受け止めて、女性は小さな背中を撫でてやる。 何度も何度も撫でてやる。 ――この澄みきった心に。哀しみと憎しみに彩られた闇の歴史が、刻まれる…… かあさま、どうしたの? 不思議そうに問う子に微笑みかけて。女性は口の中で呟いた。 心から、愛しています―― 数時間に渡り行われた儀式を、彼女は静かに見守った。かつて彼女の弟が受けたのと同じ、血塗られた洗礼を、その始まりを。まばたきもせずに見守った。 「貴女が先程口にしたその愛は。あの人だけに向かうものですか?」 痛む胸を抑えながら彼女が問うと。彼女と同じ顔を持つ女性は、首を横に振った。 ――ここにあるものは何もかも全て。この子だけに向かうもの…… 冷たい石の台に縛りつけられて。最愛の母から与えられた拷問に、子供は恐怖し泣き叫んだ。それを見つめる女性の瞳は、しかしどこまでも冷静だった。 「絶対的支配者である親に強いられて、子に逃げる道などありません。ただ受け入れるしかない状況の中、見ず知らずの存在の為に、血を、涙を流さなければならなかった理不尽さ。貴女にそれが、感じられますか……」 ただ耐えるだけなのが苦痛だと。 彼女は女性に訴えた。 女性のようには強くいられない。 こんなふうに自分を貫く自信がない。 そもそも、この宿命に『自分』という個人は介入できていないのだから、貫けるはずがないとそう思った。 だからせめて、確認しておきたい。 「貴女は本当に、その子を……私たちを。愛して下さっていたのですか……」 寂しそうな彼女の言葉を受けて、ようやく顔を上げた女性は。まっすぐに彼女を見つめる。 ――……愛していなければ。あの方は取り戻せない 長い睫毛に縁取られた、大きな漆黒の瞳は。強い意思を湛える光を中心に宿し、なにものにも揺らされない。 ――わたくしが心から愛し慈しみ、何よりも大事で失いたくないと思う存在だからこそ。捧げる価値を、持つのです 全てが終わり、意識を手放した子供の背を無言で処置する女性。その後ろ姿には、痛みのかけらも感じられない。 「……実際に傷ついたのはその子です。実際に苦しんだのはあの子です。貴女は一体何を、捧げたのです……」 その手で始めた〈責任〉を、女性はどこに負ったのか。 ――この血を継ぐ子々孫々に、いずれつきまとう深い闇。それらを作り出すのはわたくしです。ですが自らの意思で与えておきながら、わたくしには彼らの受ける傷も痛みも悲しみも苦しみも……ひとつとして負うことは許されません。己の腹を痛め生んだ子が、苦しみのたうつ様を前にして、なにひとつ、取り除き……代わってやることは、できない……! ぽろりとこぼれ落ちた、痛々しいほどの嘆き。 彼女は驚いて、女性を見た。 振り向いた女性は変わらず、しっかりした表情で彼女と視線を合わせたが。強い光がまたたく瞳の奥には、確かに深い悲しみが存在した。 ――我が身にふりかかるものならば、どのようにでも耐えましょう。けれども己は僅かも傷つかず、大切な者が血を流す……その手で犯した罪への罰として、これ以上の苦痛はありません。どうすることもできない無力感は、その者を愛すれば愛するほど。大きく、深い、絶望を与える それは知っている、彼女もそれは知っていた。 弟マリクの苦しみを傍で感じてきた彼女には。 女性の言うことは何もかも全て理解できること。 「だからこそ、『それほどの価値がある』と。私は、信じたいのです」 『それは、とても美しい夢でした』 世界は光で溢れていた。 真白な景色には、淡いながらも色彩豊かな玉が舞う。 眩しいけれど、そこには瞳を傷つけるような刺激は一切無い。ただ、直視することを躊躇させる何者かの存在が、彼女の瞳を容易に開かせなかった。 彼女がまず感じたのは。 包み込むような温もりだった。 肌に触れるそれはいつまでも包まっていたいと思う心地の良さで、そこにいれば自分を傷つけるものはない筈だと感じさせる、絶対的な安心。 守られている、この存在に守られている。 これさえあれば大丈夫、無条件にそう信じてしまう。 そろそろと持ち上げた瞼を開ききって、ようやく視界に慣れた時。 ああ、なんと美しい世界だろう。 彼女は感嘆の息を漏らしていた。 穢れなど知らぬ、透明で、雑ざりのない、純粋な世界。これが、かの人の心なのだと。 彼女は既に知っていた。 「これが、『そう』なのですか?」 うっとりとしながら彼女が問うと。彼女と同じ顔を持つ女性は、首を横に振った。 ――これだけが『そう』なのではありません。わたくしをつき動かすものは、まだ、ほかに それを感じようと彼女は努力した。 この世界の中心に、女性が言う『もの』がある……彼女の求める価値のある。 自身とそして弟の為に。彼女はそれを、探った。 そこは幾重にも重なる光の層に包まれていた。その淡い色彩はそれぞれまったく自己主張をしない大人しいものなのに、決して無視のできない、どうしようもなく心を惹きつけるものだった。 注意深く丁寧にそれらを剥いでいきながら彼女は知る。 色とりどりの光のベールは、ひとつひとつが女性の〈想い〉だったのだ。 女性の内にあった感情の全てを、見て、聞いて、感じて、そして理解した。 彼女はそれらを取り込み、己のものとしていった。 そうして彼女は辿り着く。中心に眠る『もの』の元へ。 多くの感情に守られた、大切な宝物。 しかし彼女がそれに触れたのは一瞬だけ。 最後の光を剥いだ時、それは動き出してしまったから。 そしてそのまま、消えてしまったから。 そう、女性が大切にしていたものは形あるものではなかった。 それは、女性が記憶の中に留めていた、ある〈時間〉 動き続けて通り過ぎ、もう二度と戻らない。いずれ失われてしまうある〈時間〉 女性が切り取った、過去の〈時間〉 捉えられたのは、僅かな間だけ。 その〈瞬間〉という刻の中で、彼女はしっかりと見たのだった。 「あの人が、笑っていました」 煌く太陽よりも輝いていた、 瞬く夜空の星より美しかった。 眩しくて、温かくて、壊れそうなほど繊細な。 明るく朗らかで、無邪気で可愛らしく、小さく儚い笑顔は。 彼女の中に一握りの切なさを残して、消えた。 直後、彼女を大きな感情の波が襲う。 垣間見た笑顔の記憶には、抱えきれないほどの情が縫いとめられていた。それらが解放されて、一挙に彼女に押し寄せたのだ。 女性が少年に対して抱いたたくさんの感情、その全てが「愛しい」という想いにかえってゆく。 そうしてすっかり波が引いた後、立ち尽くす彼女も自然と抱いていた。 彼女の中に眠る女性の記憶の影響だったのかもしれない、けれども確かに、少年の笑顔を目の当たりにした彼女の中に、彼女自身の感動は生まれたのだ。 「私は、この感情の向かう先を知りたい……」 彼女はぼんやりと呟いた。 何故こんなにも、求めてやまない心が自分の中にあるのか。その存在を彼女は知らないのに、求める心だけがここにある。だから知りたい、それが向かう先――あの少年を知った時、『そこまでする価値』も見出せるのかもしれない。 答を求めるように目を上げると、女性は柔らかく微笑んだ。そして、彼女に告げたのだった。 ――さぁ、目覚めの時は訪れました。宝物の導くままにおゆきなさい。求めるならば、貴女はすぐにでも。あの方に出会うことができるでしょう |
* * *
遠い国の、とある美術館。 展示物であるひとつの石版の前に、華奢な体躯の少年が佇んでいた。 多くの展示品の中で、迷わずそこに導かれる……それがきっと、何よりの証拠。 (……〈彼〉だ) 確信し、近づく。 声をかける前に、彼は振り向いた。 その強い眼差しに捕まった瞬間、彼女は『価値』を悟った。 彼自身を知るにはまだまだ時間が必要だろう。けれども彼女は、既に納得していたのだった。 (そう……この魂……) 「お待ちしておりました……遊戯……」 「あんたは……」 「私はイシズ・イシュタール……千年の月日、我が一族から伝わる王の記憶の一部をお守りして来た者です……」 ついに始まる、 ようやく終わる。 二つの運命はそこに重なり、ここから新たな運命を導くことになる。 それは夢路を辿る、現への回帰―――― |
| fin. |