神に愛された少年

【1】


(触れられたかったのは、この手じゃない)
(こんなふうに、〈感情〉を感じない手なんかじゃない)



どんなに『怖い』と心が悲鳴をあげても、
どんなに『苦しい』と心が涙を流しても、
どんなに『辛い』と心が痛みを訴えても。

アテムはその〈現実〉から逃げる事はできなかった。


ただ、求められるまま、
望まれるまま。

震えるその身を差し出すしかない。


拒絶はできない、
受け入れるしかない。


『一度だけだ』と己に言い聞かせながら、
〈愛〉を知らぬ清らかなその身を捧げ



その時間を耐えるしかなかった――――


【2】


夜明けを告げる光が、宮殿の中に差し込んでいた。

「朝、か……」

憂鬱な色をを浮かべた顔で白い光を受け止めて。
双眸を眩しそうに細めながら、シモンは呟いた。



あまりに気がかりで、昨晩は一睡も出来ず。
ただただ、〈儀式〉が彼に苦痛を与えることのないように祈り続けていた。





ファラオとなる為の〈儀式〉の内容を知る者は、

体験したファラオ自身と
〈印〉をその額に刻まれた後継者。
そして、〈監視者〉の役割を務める王の側近だけ。


なぜ、ファラオが〈神の化身〉と謳われるのか、
人々に畏怖の念を抱かせるほどの力をその身に宿すのか。

その答えは、この〈儀式〉の中にある。





昨晩それを体験した少年のことを思い、
再びシモンの心は痛んだ。

〈儀式〉を受けるのは、彼にはまだ早すぎるような気がしていたから、
できることならば、少しでも長く、先延ばしにしてやりたかった。

歴代のファラオの中で、もっとも若くしてその資格を得た彼。
本来ならば、喜ぶところなのだろうけれど。
彼に特別情を注いでいるシモンには、到底喜ぶことなどできなかった。





それは、今から3年前のこと。
先代の急死による突然の即位。

当時は本当に子供すぎて、彼が『求められる』ことはなかった。
シモンは心底ホッとしたが、それは同時に、彼が形だけのファラオであることを意味した。

(神)になれず、〈力〉も与えられていない
そんな彼を、シモンはたった一人で支え続けた。



彼が〈神の力〉を授かっていないことを周囲に悟られないようにするのは、決して楽な仕事ではなかったけれど。それでも、無邪気な彼の笑顔がそこにあったから、それを守りたいが為にシモンは必死で周囲を謀り続けた。

このまま、〈儀式〉を行わずに済むことが出来ればと、そんな願いさえ心に抱きながら。



それなのに、思いのほか早く、〈その日〉はやってきた。

シモンの夢に、〈神〉は立ったのだ。


姿を見ることが出来るのはファラオのみ。
〈監視者〉であるシモンには、声が届いただけだった。
だがたったそれだけのことが。
シモンと、彼を、苦しめることになった。



〈神〉の言葉を彼に伝えた時、
彼は特に表情を変えなかった。
大きな瞳でシモンを見つめ、確認するように呟いただけ。

『一度だけ。その時間だけ、「耐えれば」いいんだな……?』

自分に納得させるかのように。
静かに口にしただけだった。



彼はすでに〈儀式〉に於ける行為の意味を知っていた。
だが、割り切ってしまえるほど、彼の心は大人ではなくて。
だから、感じていたのは、きっと不安や恐怖ばかりだった。

それが、シモンには。
何よりも辛いことだった。



彼と同じ年齢で婚姻を結ぶことは珍しくはない。
経験することは、年齢から言えば早すぎるとは言えなかった。しかし、これは通常の契りとはワケが違う。

相手は、見たこともない〈神〉なのだ。


彼の体は同年代の少年に比べて随分と小さくて、まだ十分に発達していないように思えた。
実際、触れてみれば。まだまだ子供の域を出ていない。
それなのに、歴代のファラオがいかに若くとも青年の時分に体験したのと同じことを、彼はその未熟な体で受け入れなければならないのだ。





死の淵で、息子の為に運命に抗おうとした先王のことを思う。
きっと少しでも、先王は〈この時〉を遅らせたかったに違いないのに。



寝台へ向かう彼の細い背中を、最後まで見届けることが出来ず、
シモンは〈その時〉、逃げるように扉を閉めたのだった。


【3】


彼の部屋の前で、シモンは静かに深呼吸をした。
夜明けと共に、〈神〉はこの場から去ったはず。

一体どのような姿をしていたのだろうか。
小さな彼を、どんなふうに扱ったのだろうか。


どうか、どうか彼の心が傷ついていませんように……





ファラオとなった彼にかける言葉は定められている。
何を見ても、どう感じても、シモンの〈台詞〉は決まっているのだ。

心に湧き上がる感情を口にすることは許されていない。
彼の姿を見る前にもう一度それを肝に銘じて、シモンは扉を開いた。



中はしん、と静まり返っていた。
彼は、まだ眠っているのだろうか、ひっそりとして何の動きもなかった。

ゆっくりとした足取りで、寝台へと近づく。
距離を詰めるにつれ、むせ返る様な甘い香りが鼻腔を塞いだ。
このような香のかおり、シモンは今までにかいだことがない。
これも、〈神〉の存在の余韻なのだろうか。

確かに、昨晩。
ここに〈神〉は降臨したのだ……。



寝台の足元に跪き、シモンは深く頭を垂れた。

「陛下」

低く、呼びかける。
応えるように、ベッドの中の存在は身動ぎした。

それを受けて、顔を上げ。シモンは型どおりの賛辞を述べる。

「神との交わりを以って、全エジプトとすべての大地を統べる神の化身たるファラオとなることを許されました。陛下こそ、天と地そしてそこに存在する生命全てを統治するに相応しいお方です。この光を……」

ふいに、言葉は途切れた。

体を起こし、シモンを見つめる彼の顔を見て。
シモンの表情は凍りついた。

「……ア、テム……様……」

愕然とする。


なぜ、どうして。
〈印〉が、消えていない……?!





それは、〈神〉の所有物である証。
ファラオとなることを運命付けられた赤子の額には、生まれながらに〈神の印〉が刻まれている。

『見ている』と。
〈神の眼〉はそこで囁く。

〈神〉と契りを交わし、〈神の力〉とファラオの名を戴いたなら消えるはずなのに。
それで自由になれるはずだったのに。

なぜ、彼の額には、
いまだそれがある?!



「また、来ると……」

まるで叫び続けた後のような、掠れた声で。
アテムは血を吐くように呟いた。

「そう、仰った……シモン」
「アテム様……!」
「『一度』じゃ、なかったのか……?」
「…………」
「シモン」

泣きはらしたような腫れた目が、ひどく青ざめたやつれた顔が、物語る。
辛かったのだと、苦しかったのだと。

「あと、どれだけ耐えればいい……?」

無理に浮かべようとした笑顔が、痛々しかった。



なんということだろう。
彼は、〈神〉の寵愛を受けてしまったのか?!
分らない、あと、『どれだけ』かなんて。
〈神〉が、彼に飽きるまで。
『どれだけ』かだなんて!!

「アテム様!」

シモンは思わず彼の身を抱きしめていた。

どのような形であっても、愛情を持って彼に触れることは許されなかったけれど、
それでも抱かずにはいられなかった。

「シモン……」

シモンの胸の中で、彼は肩を震わせた。

「……痛かった……」
「アテム様」
「とっても、心が痛かった。だって、なんにも感じなかったんだ。〈神〉に、感情はなかった。シモン、これは『好き』だからすることじゃないのか?なんとも思ってないのに、していいことなのか……?」

(だから、まだ早いと!!)

シモンは悔しさに拳を握った。

彼は、まだ割り切れるほど汚れていなかったのに。
温もりを感じさせないこれが、この先も続いていくなんて!

「なんで、また?オレはいつまで、好きな人に触っちゃいけないんだ―――

シモンは答えられなかった。
ただ、強く彼の体を抱きしめることしか出来なかった。

いまだ〈神の所有物〉である、彼の体。
〈神〉が望む限り、彼は誰とも触れ合えない。
〈神〉の怒りに触れれば、どんな罰を下されるか分からないから。

だが、たとえ、どのような罰を受けようとも。
これから、幾度となく〈神〉に体を開かなければならない少年に
精一杯の愛情を贈りたかった。


シモンは長いこと、彼の細い体を抱きしめていた。
彼は何かから隠れるように、そこで小さく震えていた。

「必ず、終わりはきます」
「……うん……」
「アテム様、これは単なる〈儀式〉です」
「ん……」
「貴方様が、傷つく必要は、何もないのですよ……」
「…………」

耳元で、囁くように。
彼は一言、怖いと言った。





早く、彼が自由になれますように。
何も恐れず、愛する者と触れ合うことが出来ますように。

なんの力も持たないシモンに今できることは、
彼の為に祈ることだけ。







ああ……お願いです。

このお心が壊れてしまう前に。
誰か、どうか。


この方を、救ってください―――――












fin.



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