ねがい
20101107
――なぁ、セト――


 不意に呼びかけられて。
 懐かしい、と『妙な』感想を抱いた。


――オレの名前、知ってるか?――


 声は頭上から降ってくる。

 俺は、閉じていたらしい瞼を持ち上げた。途端、差し込んできた光に反射的に目をつむる。再びゆっくり開くと、視界はぼんやり輪郭を曖昧にするばかり。まばたきを何度か繰り返し、幕を取り払って見渡せば、そこは花咲き乱れる庭園だった。
 俺は、片膝をつき、地面に直接座り込む『誰か』と話しているようだ。

 懐かしいのも、当然。
 ここは、〈あいつ〉との思い出深い、あの庭園。
 懐かしい……風景。



 少しずつ、だが確実に、失われてゆく記憶の中で。この思い出も例外なく『消えてしまう』のだろうと考えながら、俺は答えていた。

「ええ、もちろんです。なぜ、そのようなことを?」

 言いながら、甘く痺れるような幸せと、身を刺すような辛さが体中を駆け巡るのを感じる。こみ上げるものがせっつくように刺激するけれど、俺という人間がおいそれと泣けるはずもなく。だが、発散できない為にどうしようもなく切なくて、胸が苦しかった。


(いつの……?)


 前後がいまいちつかめない……しかし馴染むコレは覚えがある。小さな子供だった〈あいつ〉と俺の日常だ。
 ずっと続くと信じていた、あるのが当たり前だった、その時間が。
 『今』、俺の手の中にあった。

 いつものように〈あいつ〉が行方をくらまし、いつものように俺はシモン様に命じられた。王子をお連れして――俺の都合などおかまいなしに、呼び出され言いつける。その一方的な命令に、何故俺が、などと文句を言いながら。結局はそいつを『口実』にして。〈あいつ〉の元へと辿り着く。

 お食事の時間だから、お勉強の時間だから。王がお呼びです、お召し物が届きました、誰某が待っています……様々な理由で、俺は〈あいつ〉を起こした。
 そう、起こした。
 〈あいつ〉はいつだって、気持ち良さそうにうたた寝をしていたのだから。

 誰にも、俺以外の誰にも、見つからずに。
 まるで、俺に起こされるのを待っているかのように。

 背の高い草の茂みや、競うように咲き誇る花々の群の中に身を隠し。ほら、『今』も……いや、違う、『さっき』まで。小さな体を横たえ大きな瞳を閉じて眠っていた。

 長い睫毛が影を落とす頬は、日に温められほんのり紅潮し、瑞々しい唇をわずかに開き穏やかな吐息を漏らす。その『安らかな時間』をとりあげるのが気の毒で、俺は時々、いや大抵は、周囲に溶け込む目の前の子供の姿を、目を細めしばし見守っていたものだ。
 そうは言っても、ゆっくりしてもいられない。『王子!起きてください!!』頃合を見計らってぶっきらぼうに声を掛ければ、すでに俺の来訪に気づいていた〈あいつ〉は遅れることなく反応して、そうして必ず、目を開けた。

 『これ』もいつもの時間だった。
 なんでもない、普通の。

 だから俺は、特別に思わなかったのだ。いつでもできたことだったから、『今』、それを言わなくてもよいと。



「知らぬ者など、いないと思います」

 〈あいつ〉の手を引き立ち上がらせて。俺はそんなふうに言った。

「そうかな、いないとは言いきれないと思うけど」

 俺の手をきゅっと握ったまま、〈あいつ〉は柔らかい声でそんなふうに言った。

「知らずして貴方のお傍にあるなど、考えられませんね」
「他の人のことじゃなくて」
「私も例外なく、存じております」
「……知っているなら、いい。お前が、知っていて、くれたのなら」
「何がおっしゃりたいのです」
「呼んでくれたこと、なかったから……知らないんじゃないかって」
「私が、あなたの名を?」

 不審そうに問うと同時に、〈あいつ〉はうつむいた。


(……何故、確かめなかった)
 

 〈あいつ〉の表情が、見えない。

 どういう顔をしているのか、分からなかった。
 何を考えているのか、分からなかった。
 どう感じているのか、分からなかった。


(もう、想像するしかなくなってしまったではないか)


 だが、恐らく。

 『あの時』、〈あいつ〉が伝えたかった気持ちを、俺は知っていた。
 きっと、知っていたのだけれど……気づけなくて。

「……あなたは王子であり、いずれ王となられる方ですから」

 〈あいつ〉との間に、線を引いた。
 自らの手で、決して消えない線を。

「そのように気安く、お呼びできるはずがないでしょう」

 そっけなく口にすると、〈あいつ〉は下を向いたまま笑ったようだった。
 とても、あいまいだが。笑っていたのは確か。しかし、楽しい嬉しい、そういった類のものとは違った気がする。
 ふたりとも黙り込んでしまって、どうにも居心地の悪い空気が流れて。

「そうだな」

 〈あいつ〉がようやく、言葉で肯定した。
 それから、うん、と首を傾け頷いて。
 そうしてそっと、つぶやいたのだった。

「ちゃんと……『呼ばれて』、起きたかったな……」
「え?」

 聞き取れなかったから、思わず無作法な形で聞き返してしまう。けれども〈あいつ〉は、俺に応えなかった。

「なんでもない」

 顔を上げて、明るく、今度こそ笑って、言っただけ。


(声をかければ、必ず目を開けたあの時に)
(まだ、『知っていた』、あの時に)
―――してやれば、よかった)


 その件に関して、〈あいつ〉が俺に伝えたことはその後もなく。
 何かを吹っ切ったような表情だけが、ずっと瞼の裏に残り続けて……


 何もかもを失った今は。

 〈あいつ〉が願ったように、ただ、呼んでやるだけでよかったのだと
 後悔だけがしこりの如く、俺の胸にこびりついている。



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